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2010年11月 7日 (日)

小幡城をゆく

小幡城は静かに眠っていた。

北関東自動車道の茨城町東ICで下りる。

国道6号線を東京方向にしばらく走ると左に国指定史跡小幡北山埴輪公園とあり、駐車場に車を止める。

案内板によると、小幡北山埴輪製作遺跡は埴輪という焼物を作っていた工場の跡とのことで、材料の粘土を掘った跡、埴輪を作ったり保管しておいた建物の跡、埴輪を焼いた窯の跡が見つかっているとのこと。また、窯の数は五十九基と全国で一番多く、平成四年(一九九二)国の指定史跡になったとのことである。

公園に入ると、左側に復元前方後円墳があり、右に進んで公園内を一周した。復元埴輪窯は見たが、案内板に表示されていた「復元はにわ工房」は「復元工房/屋根にのぼったり、カヤを抜いたりしないでネ。」という立札のみであった。

トイレの近くから公園を出て歩き出す。国道6号線に入り、奥谷跨道橋を渡ると左側に土塁が続いている。土塁に沿って歩き、茨城東高校北交差点を左に入った。

しばらく歩き、千貫桜跨道橋を渡ってさらに歩き、ひたすら歩いて行くと交差点に出た。これを右折した。

少し行って右に入り、坂道を下りて行くと道の右側に神社がある。香取神社という神社で、石段を上がって行って手を合わせた。

香取神社を後にすると、目の前にこんもりとした森があり、道が続いている。細い流れの寛政川を渡り、小幡城に入る。

「町指定史跡小幡城跡」という標柱が立っていて、「町指定文化財小幡城跡」の案内板を読むと概要は以下のようである。

小幡城は、大掾詮幹の三男義幹が室町時代に築いたという説と、小田知重の三男光重が鎌倉時代に築いたという二説がある。戦国時代の文明年間(一四八一年ごろ)以後は、水戸城の江戸氏の影響下に入る。天正十八年(一五九〇年)十二月、豊臣秀吉の権力を背景にした太田城(常陸太田市)の佐竹義宣により、水戸城の江戸氏は城を奪われ、この時小幡城も落城した。その後、小幡は佐竹氏の秋田移封まで佐竹義宣の直轄地となり、家臣の和田昭為が管理している。

堀底道を行く。少し行くと赤い矢印で本丸/櫓跡とあり、左に進む。道は左右に分かれているが、まずは左に行って二の郭側の出口を確認した。

それから本丸方向に進んで、右側にある櫓跡に上がった。ここから変形武者走りを少し行き、戻るところで木の段の杭に躓いて転び、庇う掌を擦りむいて血が出た。ふと考えると、転び方によっては堀底まで落ちてしまうことも考えられ、先に進むかどうか迷う。縁起も悪いし、帰って出直そうかとも考えたが何とか踏み止まり、先に進むことにした。

堀底に下りてさらに進む。四の郭と五の郭を結ぶ土橋があり、上がって城外を見下ろした。それから土橋を下り、竹が倒れている道を進んで木の段を上がり本丸に入る。

本丸奥には井戸跡が残っていた。ここには小幡城落城のとき、お姫様が金の鳥をかかえて井戸に身投げしたという悲しい言い伝えが残っているという。本丸をひと回りして赤く色づく紅葉をながめ、本丸を後にする。

四の郭から土橋を通って五の郭に渡り、七の郭につながる土橋から堀底に下りて入口まで戻ろうとしたが、途中で進めなくなってしまった。仕方なく五の郭から四の郭に戻り、今度は稲荷神社を右手に見て進み三の郭から一旦城外に出た。それからまた引き返し、四の郭から、来た道とは反対側の堀底道に入る。そして本丸と三の郭、二の郭の間の堀底を通り、先ほどの赤い矢印に戻った。

そこから今度は六の郭の両側の堀底道を進もうとしたのだが、どちらも途中で進めなくなってしまい引き返す。城を出る時「小幡城跡見学のみなさんへ」という注意書きをよく見てみると、「3.あぶないですから、順路(矢印)以外のところへは行かないでください。」とあった。

城から南東に進み、山崎集落で土塁を見て小幡城に戻り、今度は小幡城の周りを歩く。二の郭、三の郭、四の郭、五の郭と見上げながら城の南側を歩き、西側の七の郭に出た。七の郭、土門(大手門)のあたりは、東関東自動車道によって壊滅していた。

戻る途中、千貫櫻歌碑を見る。

春風も 心して吹け 散るは憂し 咲かぬはつらし 花の木のもと

駐車場に戻り、ナビに導かれて帰る。

本日、19085歩也。

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