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2010年8月 7日 (土)

名胡桃城をゆく

名胡桃城は小ぶりな城である。

上越線の後閑駅で降りる。

後閑駅前の奥利根ゆけむり街道を左に向かう。車がかなり通るが歩道は狭い。

まっすぐに歩いて行くと、関越自動車道月夜野ICからの車が高架を通る。こちらは彼らに合流して利根川を渡りたい。高架の下をくぐり、右側に進んで上り口を探すが見当たらない。

かなり迷ってやっと見つけた。上って月夜野大橋を見渡す。「月夜野大橋」という名とともに「田中賞1983土木学会」とある。橋の前方には山々が連なっており、後方は国道17号線から関越自動車道への上り口である。橋の左には沼田の町が低く見え、右側を見下ろすと利根川の流れが見えた。

月夜野大橋を歩いて利根川を渡る。前方左に赤い看板が見え、六連銭と「名胡桃城址 次の信号、右入る」とある。名胡桃城も近い、と思ったのだが「次の信号」が歩くと実は遠い。

右手の湯舟沢を見下ろし、前方を望むと遠くに柵が見える。近くに来てはいるようだ。

湯舟橋の先に名胡桃城はある。赤地と黒地の名胡桃城址の幟が迎えていた。「ホタルの里 つきよの」の看板もある。

案内板を読むと概ね次のようである。

利根・沼田地方は鎌倉時代より戦国時代にかけて沼田氏が支配していた。戦国時代の天文の頃、小田原の北条氏の支配となるが、永禄3年(1560)越後から上杉謙信が進出して支配する。しかし謙信が急死すると再び北条氏の支配となった。天正7年から8年にかけて真田昌幸が信州から利根に入り名胡桃城などを攻略して沼田城を調略した。この頃全国統一に向かって歩を固めていた秀吉は北条氏に対して上洛を促していたが、北条氏は上洛の条件として利根・吾妻の二郡を要求。真田昌幸は、沼田城は渡しても名胡桃城は渡すことはできないと答えた。天正17年(1589)7月利根川の東と赤谷川の左岸を限って北条領、西は真田領との秀吉の裁量が決まる。しかし北条氏の沼田城代となった猪俣邦憲は名胡桃城を不法にも占拠してしまう。この事件を知った秀吉は激怒、小田原攻めを開始し、北条氏は数ヶ月の籠城後、秀吉の前に降伏した。5代・100年にわたって関東に覇を唱えた北条氏であったが、この名胡桃城事件が直接の原因となって北条氏は滅亡し、100年余続いた戦国時代は終わりを告げた。

三の丸堀を見て、丸馬出しから三の丸虎口を通り三の丸へ入る。振り向いて遠くの山を見渡す。

二の丸堀を見て、喰違い虎口から二の丸へ入る。また振り返って見渡す。

本丸堀を見下ろし、本丸虎口から本丸に上る。本丸には徳富蘇峰の書になる「名胡桃城址之碑」が建立されていた。右角が欠けた形である。

本丸から湯舟沢、さらに左奥の遠くの町を見下ろす。右側には湯舟橋が見える。先ほどこちらを眺めた場所であろう。本丸の斜面では崩壊を防止する事業が行われているようである。

本丸からその先のささ曲輪へ進み、本丸を振り返る。さらに進んで、小さな袖曲輪を見て、沼田方面、後閑駅方面を見渡した。

本丸に戻り、もう一度「名胡桃城址之碑」を見上げ、本丸北側の斜面を見下ろす。

二の丸、三の丸から丸馬出しに戻り、国道17号線を少し行って般若曲輪に入る。曲輪の斜面を見下して名胡桃城を後にする。

湯舟橋を渡り、国道17号線から今度は左に入り、湯舟沢へ下りて行った。

途中、若宮八幡宮に寄り、県指定重要文化財という「小川島の歌舞伎舞台」を外から眺めた。

後閑駅に急ぐ。赤谷川を渡り、月夜野中学校の東側にある橋を渡って駅に戻るつもりで行ってみると、橋を渡ってはいけないとのこと。ここまでの地図しか持って来ていない。

とにかく北へ進み、車の通る道に出て東に進む。街路灯の柱には「月夜野」「水と緑とロマンの里」とあった。やっとのことで利根川を渡り、南下して後閑駅に着いた。

電車に乗って帰る。

本日、15357歩也。

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