2012年4月21日 (土)

真田城をゆく

真田城は消えつつあった。

小田急線の秦野駅で降り、まずは弘法山に向かう。

北口に出ると、駅前には川がある。しゃれた時計台を見上げて、橋を渡る。

川に沿ってひたすら東に歩き、新常盤橋交差点を左折すると山が迫ってきた。

河原町交差点を右折してしばらく歩き、室川橋を渡って左に入る。

川に沿って少し歩き、橋を渡ると上りになる。長源寺を過ぎ、左折して急な道を上った。やがて車が通れる道にぶつかったので、この道を右に進んだ。

車で山に登れる道を、歩いて登る。「ハイカーに注意 スピード落とせ!」との表示がある。「落石注意」との表示もあった。

かなり歩いて「弘法山公園 浅間山駐車場」に出た。車で来た人はここから山に登る。

右に入って登っていくが、これはきつい。今シーズン初めての山登りということで、日頃の運動不足を痛感した。

休みながらも何とか頂上に着いた。「権現山」とある。展望台もあり、「弘法山公園展望台」ということで、「関東の富士見百景」選定地とのことである。

山頂はかなり広い。「権現山の歴史」という案内板を見ると、「通常弘法山と言えばこの権現山を含んでのことであり、又の名を千畳敷きとも呼ぶ。」とある。どうも室町期の城郭址らしい。前田夕暮の歌碑もあった。

弘法山はこの先にあるらしいが、これからのことを考え体力を消耗しないよう山を下りることにした。

展望台に上り秦野の町並みを見渡し、来た道を下りようとすると70代くらいのハイカーも上がってくる。さらに運動不足を痛感した。

浅間山駐車場まで下り、車道を北に向かう。道なりに進んで、西側に下りていく。

下りる途中、「亀の子石」の案内板があった。車で来たら知らずに通り過ぎてしまっただろうと得した気分になったが、どれが亀の子石なのか分らなかった。

衛生センター入口交差点に出て、秦野駅を目指す。弘法山公園入口を過ぎ、川原を歩いて秦野駅に着いた。

秦野駅から電車で一駅、東海大学前駅で降りる。

駅前を東に向かい、東海大学前駅入口交差点を渡ってさらに東に向かう。

しまむらのところで右に入ると、土地が起伏に富んできて城が近いと思われた。

ふと見ると、国会議員の時局講演会の案内が貼ってある。講演会は2013年10月、今から1年半後である。こちらは1か月後の予定も不明である。そのころには、この案内も風雨にさらされてしまっているのではないだろうか。

ゆるやかに上っていくが、このあたり一帯、盛んに工事を行っている。土地の改変が著しい。真田神社でも工事を行っていた。

真田神社から少し戻り、北へ下りていく。左手の高台に建物が見えた。下りたところに大きな四角いエリアがあり、水がたまっていた。堀跡なのだろうか。

ファミリーマートを左折して上っていく。左側の土地は高くなっている。道の左側を見下ろすと堀跡かと思われたが、そこは不法投棄の場と化していた。

天徳寺に着いた。境内を歩き、真田学校跡の碑を見つけた。それから西側にある御堂で「眞田城と天徳寺の由来」という案内板を見つけた。

天徳寺を後にし、再び不法投棄の場を見て真田橋を渡る。

大根公園を過ぎて上って行った。途中で神奈川県指定天然記念物「鶴巻の大ケヤキ」を見つけた。樹高三十メートルにおよぶ大木とのことなのだが、今は幹が切られていた。

鶴巻温泉駅から電車に乗った。

本日、22135歩也。「しっかり」も13376歩であった。

2011年6月 4日 (土)

小田城をゆく

小田城は工事中であった。

JR常磐線の土浦駅で降り、バスで筑波山方面に向かう。

小田入口で降り、うなぎ店の脇を入った。

道は舗装されていて、黄色と緑の田畑が広がる。田んぼには水がある。少し行って左に折れ、筑波自転車道を渡って右に行く。

やがて道は用水路にぶつかり、用水路に沿って北西に進む。北側は城と思われ、前方にはこんもりとした林が見える。

右へ入城できるかと思われる場所に来たが、そこは工事用車両の出入口になっていて一般人は入れない。いやな予感がした。

仕方がないので道なりに進む。道はだんだん右に曲がっていき、右側に竹に覆われた土塁の名残を見たところで右折した。

天満宮には鳥居が建っておらず、境内に「大地震でいたんだので外した鳥居です。」とあった。

長久寺に入る。水路の上を通って境内に進む。左折して本堂に向かうと、右側に石造灯籠があった。茨城県指定工芸品で、鎌倉中期の傑作とのことである。寺の東側に残る水堀を見た。

それから龍勝寺を訪れ、北に向かうと筑波自転車道に出た。これを南東に歩くと、左側に隠れて水堀があった。さらに進んで、筑波鉄道旧小田駅の手前、左に広がる堀跡を見た。

旧小田駅から東に向かい、堀跡に沿って北に進む。

一旦、旧道に出て東に向かい、小田小学校へと下りてくる。小田小学校西側の土塁を見て、いよいよ本丸に向かう。

「国指定史跡 小田城跡」の案内板には、以下のようなことが書いてある。

小田城は一二世紀末に八田知家によって築かれた。四代時知に至り小田氏を名乗る。戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。小田氏治は永禄一二年(一五六九)の手這坂の合戦に敗れて土浦へ逃げた。佐竹氏は梶原政景を小田城代として守らせた。政景によって小田城は大規模に改修された。慶長七年(一六〇二)に佐竹氏は秋田へ国替されて廃城になった。

小田城は、本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれた平城で、約二一ヘクタールに及ぶ。本丸部分の約二ヘクタール程を八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。南北朝に入ってから、居館から防御のための城郭へと転化した。戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知り得る姿になって完成する。

が、本丸は「小田城跡を整備しています」とのことで、南西部分が「工事関係者以外立入禁止」の柵に閉ざされていた。「中世の小田城跡を体感できる歴史ひろばとして整備する計画」なのだという。

筑波自転車道を信田郭の先まで歩き、戻ってきて鐘撞堂のあった高台に上がる。堀跡を見下ろした。

高台を下り、曲輪Ⅴ方面に進んで本丸西側の土塁を見る。それから再び旧道に出て、延寿院、八坂神社、解脱寺とめぐり、本丸に戻った。

堀跡の田んぼを見ながら国道125号線を目指す。

小田今宿からバスに乗り、土浦駅で電車に乗って帰る。

本日、17625歩也。

2011年5月15日 (日)

常陸府中城をゆく

常陸府中城に土塁が残る。

JR常磐線の石岡駅で降りる。

駅前を少し左に行って右に入り、坂道を上っていく。交差点を左に折れてまっすぐに進むと、北向観音堂があった。

その観音堂から少し左に行き、奥に進むと春林山平福寺である。ここには市指定史跡の常陸大掾氏墓所があるという。すぐに大きな石碑が目に入る。「常陸大掾氏碑」とあり、石碑の左上が欠けていた。しかし、墓はあるのだが、肝心の墓所が見当たらない。境内にいる方に教えていただいた常陸大掾氏墓所では、地震で落ちた墓石がころがっていた。

平福寺を後にすると、北向観音堂のすぐ先に府中誉株式会社の門がある。登録有形文化財の建物は地震の被害を受けていた。

国道355号線を渡り、国府平の森 金刀比羅神社に参る。手を合わせ、清凉寺に向かう。

清凉寺の寺紋は佐竹氏の家紋の「月丸扇」である。案内板によると、天正18年(一五九〇)豊臣秀吉から常陸と下野を佐竹氏の領地として朱印状により公認されたことから、佐竹氏はいよいよ江戸氏、大掾氏などの討伐を始める。江戸氏の水戸城を攻め落とし、その余勢をかって府中城を攻撃、戦火の中、清凉寺や不動院などの多くの神社仏閣などが府中城とともに焼失した。その後、佐竹義宣の叔父南義尚が府中城主となり、清凉寺を菩提寺として再建したとのことである。

清凉寺の隣にあるしゃれた造りの公園を抜けて西に向かうと、土地が起伏に富んできて、いよいよ府中城が近いのかと思う。

下って、車道を横断し、上っていって左側にある階段を上る。

少し行くと、石岡小学校の脇に大きな鳥居がある。「危険 鳥居にヒビが入っています。近づかないで下さい。」とあるので静かにくぐる。府中城の堀跡かと思われる参道を進むと、常陸国総社宮の茅葺の隋神門が現れる。ただし、石岡市指定文化財である隋神像は修復が始まったということで、ここにはない。

門をくぐり、拝殿に手を合わせる。それから逆光の建物をデジカメで撮った。

急な石段を下りていくと、こちら側にも鳥居があった。「常陸國總社宮」の石柱もある。鳥居をくぐり、府中城を右に見て西へと進む。

かなり歩いて、今度は道に沿って城を上っていく。民家が密集していて、上り切ると、やがて道は東に向かう。

しばらく行くと、右手に堀があり、左手にも視界が広がる。こちらも堀跡と思われる。

保育所の脇にオレンジの花が咲いていて、きれいなのでデジカメで撮った。保育所の先を下りていき、地形を確かめて戻る。

それから石岡小学校を右に見て北へ進み、突き当たりを左に下りていった。左手の水堀跡かと思われる小さな流れに沿って下りていき、かつての府中城、現在は民家が建つ高台を見上げて戻った。

市民会館の入口に「石岡の陣屋門跡」の石碑が建つ。そして石岡小学校に入ると、土塁の上には「常陸のみやこ 一千有餘年」の碑があった。

県指定有形文化財「石岡の陣屋門」、市指定史跡「府中城の土塁」をデジカメで撮る。「常陸國府跡」の碑もあり、これもデジカメで撮った。石岡市民俗資料館も見学した。

その後、青屋神社を訪ね、若宮八幡宮に向かった。

若宮八幡宮では鳥居の位置からトラロープが張られており、「危険 ロープ内に立ち入らないでください」とのことである。境内を見ると、多くの石灯籠が倒れていた。

それから常陸国分尼寺跡を訪ねる。国指定特別史跡とのことで、大変広い。歩き回った後、常陸国分寺跡も訪ねた。

戻る途中、いしおかイベント広場には「がれき類の受け入れは終了しました。」とあり、地震の被害を思った。

青木稲荷神社に参り、それから照光寺の常陸府中藩主松平家墓所を訪ねた。そして高野菓子店で釣鐘最中を買い、東京庵でそばを食べた。

最後に鈴ノ森稲荷神社に参り、石岡駅に戻る。

石岡駅から電車に乗った。

本日、14635歩也。

2011年5月 8日 (日)

多賀谷城をゆく

多賀谷城は公園の中にある。

関東鉄道常総線の下妻駅で降りる。

橋を渡って駅の東側に下り、左にやや上がっていくと多賀谷城跡公園がある。公園は四角く道路から盛り上がっている。中に入ると花が咲いていて、きれいに整備されていた。奥に進むと一段と高い場所があり、「下妻市指定文化財 史跡 多賀谷城本丸跡(旧名 下妻城)」の標柱がある。

案内板によると、

多賀谷氏は、初代氏家が現在の多賀谷城跡公園の一郭に本丸を構え、隣国豪族を攻めてその勢力下に置くほか小田原北条氏政勢の再三の来襲を撃退するなど七代にわたり百四十七年間下妻城主として常総地方に栄えていた。慶長五年、関ヶ原の戦が起き七代重経は佐竹氏とともに西軍に心を寄せ徳川家康の再三の誘いにも出陣しなかった、この戦いで家康に憎まれ石田三成にくみした理由で慶長六年(一六〇一)二月城主追放城破却となり当地を去った

とのことである。

石段を上がって多賀谷氏遺跡碑に手を合わせた。並んで建つ平和塔にも手を合わせて公園を後にする。

再び橋を渡って下妻駅の西側に行き、下妻一校の脇に建つ城山稲荷神社を目指す。赤い鳥居をくぐって神社の境内に入り、多賀谷城の名残の土塁を見学した。

それから光明寺を訪ね、親鸞御手植の菩提樹と明空御手植の柊を見る。

駅からの道に戻り、砂沼を目指す。途中、郵便局のところを右に入り、翁屋で「きぬの夕月」と「多賀谷城」を買った。その先の成田屋でも和菓子を買い、先を急ぐ。

少し行くと右手に砂沼が広がる。沼を囲む風景とそれが沼に映っている情景をデジカメで撮った。

道は長塚三差路で国道に合流する。国道を進み、砂沼公園入口交差点を右に入る。

下妻市ふるさと博物館を目指すが、距離がありそうなので途中で細い道を左に入りショートカットを目論んだが、博物館への入口は一箇所で、かえって余計に歩くことになってしまった。

博物館は洒落た造りで、200円を出して入館する。ホールには城の模型があった。これをじっくり見てから常設展示室を見学した。

セブンイレブンの脇の道を進んで砂沼に出る。沼に沿って南に歩くと橋がある。砂沼大橋は工事中であった。耐震補強工事をしているようだが通行はできた。砂沼には釣り舟が何艘も出ていて、さざ波が立っていた。

橋を渡り終えると砂沼広域公園観桜苑が広がっていて、しばらく散策した。

公園を出て右に進み、交差点を横切ってさらに歩き下妻神社に着いた。ここで天然記念物「下妻神社の大欅」を見て、さらに進む。

常総線の踏切を渡り、下妻警察署南交差点を左に行った踏切の左側にある、これも多賀谷城の名残の土塁を見る。

それから多宝院を訪ね、多宝院の東側に広がる田んぼを見下しながら警察署のある県道に下りて行った。

下妻警察署の前を進んでいく。このあたり、土地が低く昔は沼か湿地だったのだろう。地震後に道路を補修した痕がある。歩道には細かな地割れがあった。

やがて糸繰川に架かる橋に出て、今度は川沿いに北へ向かう。まわりは水田だが遠くの右手に森がある。目指すは大宝城である。

川から離れて森に向かって歩き、左右に分かれる道を左に向かう。大宝城の周囲を歩く。

「昭和九年五月一日国指定文化財(史跡)大宝城跡(平安-南北朝時代)」の標柱がある。所々で右手の城側を見上げながら歩いていく。左手は旧大宝沼である。

北側のあじさい園から城に入り、「南北朝時代に南朝方の拠点として名を馳せた大宝城のからめ手の土塁が往時のままに残っています」という歴史の散歩道を歩いた。

あじさい園を出て北側から東側にまわり、敵返不動尊を過ぎてさらに進む。城の周囲をほぼ一周し、城の南「大寶八幡宮」の石碑が建つ鳥居から入城する。

「国指定文化財 史跡 大宝城跡」の案内板によると、

平安時代から南北朝時代にかけてあった城跡。西、北、および東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われるから三北断崖に面した要害の地であった。

とあり、城跡は大宝八幡宮の境内として今にその面影を留めているという。境内南東にある土塁に上がり遠くを見渡した。

それから大宝八幡宮の参道を進み、拝殿に手を合わせて御守を買った。さらに奥に進み、本殿を横から見上げ、「贈正四位下妻政泰忠死之地」の碑に手を合わせた。

大宝駅から電車に乗って帰る。

本日、23157歩也。

2010年11月 7日 (日)

小幡城をゆく

小幡城は静かに眠っていた。

北関東自動車道の茨城町東ICで下りる。

国道6号線を東京方向にしばらく走ると左に国指定史跡小幡北山埴輪公園とあり、駐車場に車を止める。

案内板によると、小幡北山埴輪製作遺跡は埴輪という焼物を作っていた工場の跡とのことで、材料の粘土を掘った跡、埴輪を作ったり保管しておいた建物の跡、埴輪を焼いた窯の跡が見つかっているとのこと。また、窯の数は五十九基と全国で一番多く、平成四年(一九九二)国の指定史跡になったとのことである。

公園に入ると、左側に復元前方後円墳があり、右に進んで公園内を一周した。復元埴輪窯は見たが、案内板に表示されていた「復元はにわ工房」は「復元工房/屋根にのぼったり、カヤを抜いたりしないでネ。」という立札のみであった。

トイレの近くから公園を出て歩き出す。国道6号線に入り、奥谷跨道橋を渡ると左側に土塁が続いている。土塁に沿って歩き、茨城東高校北交差点を左に入った。

しばらく歩き、千貫桜跨道橋を渡ってさらに歩き、ひたすら歩いて行くと交差点に出た。これを右折した。

少し行って右に入り、坂道を下りて行くと道の右側に神社がある。香取神社という神社で、石段を上がって行って手を合わせた。

香取神社を後にすると、目の前にこんもりとした森があり、道が続いている。細い流れの寛政川を渡り、小幡城に入る。

「町指定史跡小幡城跡」という標柱が立っていて、「町指定文化財小幡城跡」の案内板を読むと概要は以下のようである。

小幡城は、大掾詮幹の三男義幹が室町時代に築いたという説と、小田知重の三男光重が鎌倉時代に築いたという二説がある。戦国時代の文明年間(一四八一年ごろ)以後は、水戸城の江戸氏の影響下に入る。天正十八年(一五九〇年)十二月、豊臣秀吉の権力を背景にした太田城(常陸太田市)の佐竹義宣により、水戸城の江戸氏は城を奪われ、この時小幡城も落城した。その後、小幡は佐竹氏の秋田移封まで佐竹義宣の直轄地となり、家臣の和田昭為が管理している。

堀底道を行く。少し行くと赤い矢印で本丸/櫓跡とあり、左に進む。道は左右に分かれているが、まずは左に行って二の郭側の出口を確認した。

それから本丸方向に進んで、右側にある櫓跡に上がった。ここから変形武者走りを少し行き、戻るところで木の段の杭に躓いて転び、庇う掌を擦りむいて血が出た。ふと考えると、転び方によっては堀底まで落ちてしまうことも考えられ、先に進むかどうか迷う。縁起も悪いし、帰って出直そうかとも考えたが何とか踏み止まり、先に進むことにした。

堀底に下りてさらに進む。四の郭と五の郭を結ぶ土橋があり、上がって城外を見下ろした。それから土橋を下り、竹が倒れている道を進んで木の段を上がり本丸に入る。

本丸奥には井戸跡が残っていた。ここには小幡城落城のとき、お姫様が金の鳥をかかえて井戸に身投げしたという悲しい言い伝えが残っているという。本丸をひと回りして赤く色づく紅葉をながめ、本丸を後にする。

四の郭から土橋を通って五の郭に渡り、七の郭につながる土橋から堀底に下りて入口まで戻ろうとしたが、途中で進めなくなってしまった。仕方なく五の郭から四の郭に戻り、今度は稲荷神社を右手に見て進み三の郭から一旦城外に出た。それからまた引き返し、四の郭から、来た道とは反対側の堀底道に入る。そして本丸と三の郭、二の郭の間の堀底を通り、先ほどの赤い矢印に戻った。

そこから今度は六の郭の両側の堀底道を進もうとしたのだが、どちらも途中で進めなくなってしまい引き返す。城を出る時「小幡城跡見学のみなさんへ」という注意書きをよく見てみると、「3.あぶないですから、順路(矢印)以外のところへは行かないでください。」とあった。

城から南東に進み、山崎集落で土塁を見て小幡城に戻り、今度は小幡城の周りを歩く。二の郭、三の郭、四の郭、五の郭と見上げながら城の南側を歩き、西側の七の郭に出た。七の郭、土門(大手門)のあたりは、東関東自動車道によって壊滅していた。

戻る途中、千貫櫻歌碑を見る。

春風も 心して吹け 散るは憂し 咲かぬはつらし 花の木のもと

駐車場に戻り、ナビに導かれて帰る。

本日、19085歩也。

2010年9月11日 (土)

松代城をゆく

松代城は海津城である。

新幹線で長野駅に降りる。

まず川中島バスの長野駅前営業所で善光寺・松代1dayパスを買った。長野駅構内で西澤のおやきを買い、バスに乗り込んで食べる。しばらくして、川中島古戦場で降りた。

川中島古戦場 八幡社の右脇には逆槐(さかさえんじゅ)と「三太刀七太刀之跡」の石碑があり、左側には執念の石がある。八幡原本陣再現の像を見て、首塚を見上げた。

それからバスに乗って松代に向かう。

松代駅前で降りると、屋代線松代駅の駅舎は昔懐かしいものであった。駅で切符を買うと、これもまた懐かしい硬券である。駅のホームからは、後で訪ねる松代城が見える。ホームには、「六文銭の里 信州・まつしろ 120分の散策」の幟とともに「乗って残そう屋代線!」の幟があった。

岩野駅で電車を降りると、岩野駅は無人駅で自販機の一つもない。仕方なく飲み物を持たないまま歩き出す。

国道403号線を戻り上信越自動車道の下をくぐると、「妻女山展望台→」という表示があり、登って行く。「上杉謙信槍尻之泉」の碑を見て、さらに登った。

「川中島古戦場 妻女山」の案内板には次のようにある。

ここは、一五六一(永禄四)年九月十日の第四次川中島合戦の折り、越後の上杉謙信が陣を設けた山。ここから川中島平は一望でき、海津城の動静を伺い知ることができた。同年九月九日、海津城からもくもくと立ち上る煙を見た謙信は、武田方の戦いの準備を察し、その夜、山を下り千曲川や犀川を渡って八幡原の信玄の本陣を目指した。

展望台に上がると川中島平が広がり、川中島合戦図があった。

展望台の先には招魂社があり、その先には広場があった。さらに先に道が続いているようで、手書きの案内板がある。それによると展望台のあるあたりは旧赤坂山であり、本当の妻女山はもっと先にあるという。そこで、さらに進んで行くが、藪蚊が猛然と襲って来た。飲み物もなく、熱中症も心配になって、これ以上行くのは断念した。

山を下り、上杉謙信公鞍掛松を見て、その後は国道403号線をひたすら歩き松代の町に向かう。途中、自販機で水分を補給した。

松代の町に入ると街灯に六文銭がある。それを見て右に入ると、登録有形文化財の馬場家長屋門があった。これをデジカメで撮り、川に沿って歩いて象山神社に入る。

象山神社境内にある高義亭を見上げ、「佐久間象山先生」とある像を見る。さらに進んで県史跡佐久間象山宅跡や茶室煙雨亭を見た。

それから恵明寺を訪ね、松代象山地下壕の入口に着いた。地下壕にはヘルメットを着用して入り、見学できるコースの終点まで行って戻ってきた。

次に大英寺に向かった。案内板によると長野県宝・大英寺本堂及び表門は真田信之が夫人小松姫の霊屋として建立したものとのことである。境内には多くの花があった。

その後、長国寺に向かった。長国寺では、拝観券を買って真田家の墓所や霊屋を見学し説明を伺った。恩田木工民親の墓に手を合わせて、長国寺を後にする。

町を歩き、元込め連発銃を完成した片井京助居住の地、矢沢家表門、小山田家門などを見て、池田満寿夫美術館の庭にある三の堀の一部を見た。いよいよ松代城に入る。

松代城(海津城)跡[国史跡]案内板によると、松代城は江戸時代には松代藩主・真田家の居城で、そのはじまりは戦国時代に築城された海津城とのこと。

二の丸南門から入り、太鼓門前橋と太鼓門をデジカメで撮る。そして前橋を渡り、太鼓門をくぐって本丸に入る。本丸では北西の戌亥隅櫓の石垣に上がり、周囲を見回してから下りて海津城址之碑を見上げ、北不明門を出た。そして井戸を見て東に向かい、二の丸に入り東不明門前橋を見てから太鼓門前橋に戻った。今度は内堀に沿って西に向かい、土塁の外側を歩いて再度本丸北側の井戸まで行く。そして搦め手を抜けて新堀を見ながら東に進み、外堀跡を見ながら回って太鼓門前橋に再度戻った。それからまた西に行って管理棟で日本100名城のスタンプを押し埋門をくぐると、既にかなりの時刻になっており、仕方なく松代駅前のバス停に向かった。

真田宝物館、真田邸それから文武学校といった、松代に来る人が必ず訪れるであろう観光地を訪ねることなくバスに乗る。

長野駅から帰った。

本日、27625歩也。「しっかり」も11389歩であった。

2010年9月 4日 (土)

掛川城をゆく

掛川城は東海の名城である。

新幹線の掛川駅で降りる。

駅前を北に進み、連雀西交差点の次の信号を右折して歩いて行くと、左側に復元された掛川城大手門が現れる。

案内板を読むと、元の位置はここから50メートル南側らしい。大手門から見る天守が一番美しいといわれるとのことで、この付近から大手門と共に天守を観賞くださいとあった。

門をくぐると右側に掛川城大手門礎石根固め石があり、番所がある。

「三光稲荷御由来」を読み、大手橋を渡らずに逆川沿いに左に戻る。桃色の花が咲いていて、花越しに天守閣と太鼓櫓を望む。絵になる光景である。

緑橋を渡り、松尾池跡を見て進む。

四足門へ登る石段の右に松があり、大きな石碑に「掛川城公園」とある。三日月堀を見て天守閣を望むと、手前の白壁の先に白亜の天守閣があって、これもまた絵になる光景である。

四足門をくぐると、右側に掛川城主要部の模型がある。三日月堀と十露盤堀を見下ろした。これは珍しいと思った。

案内板には以下のようなことが書かれている。

掛川城は、文明年間(1469~1486)頃今川氏の家臣が、掛川古城を築いたことに始まる。永正10年(1513)頃に現在の位置に移り、今川氏の遠江支配の拠点となった。永禄12年(1569)徳川家康がここに立てこもった今川氏真を攻め、長期にわたる攻防の末、掛川城は開城。家康の支配下に入った掛川城は、甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点となった。天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げ、脅威であった徳川家康の領地を関東に移した。さらに、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入った。一豊は、大規模な城域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守閣をつくった。その後、掛川城は徳川譜代の大名の居城として明治維新まで続いた。

太鼓櫓を見上げて本丸に入り、天守閣を見上げた。また、本丸には花広場があり、入って行ってデジカメで花を撮った。

入館券を買い、旗指物の並ぶ登城路を登る。何度も折り曲げた狭い石段は、敵の侵入に備え登りにくくなっているとのこと。

天守丸に入り、霧吹き井戸を見て、いよいよ復元された木造の天守閣を登る。石落としから石垣を見て、さらに上がる。最上階からは四方を見渡した。町と遠くの山々が見える。「日本百名城」認定証が掲げてあるのを見た。

二の丸に下り、重要文化財の掛川城御殿に入る。内部を見学し、御殿を出るときに「日本100名城」スタンプ帳に「42掛川城」のスタンプを押した。ついでといっては何だが、掛川城登城記念スタンプ帳にも天守閣と御殿のスタンプを押す。

御殿を出て庭を歩くが、ここからの天守閣も良い。絵になる光景である。

二の丸美術館には入らず、公園を出て城内公民館を右に行く。

掛川古城のあった子角山には龍華院大猷院霊屋がある。霊屋の周りをひと回りし、東側に下りて空堀を見た。

再び公園に入り御殿の井戸を見て、左に黒土塁を見ながら御殿の玄関に戻った。玄関から、今度は下りていき、はす池に向かう。はす池に真っ赤な橋が映えているのを見た。

はす池を後にし、城内公民館を今度は左に行く。城山を見上げて周りを歩く。

松尾橋の手前で城山に登り、再び本丸に立つ。天守閣を見上げ、四足門から下りて緑橋を渡った。

渡ってから、もう一度振り返って天守閣を望んだ。やはり絵になる光景である。

今度はまっすぐに歩いて掛川駅に戻る。掛川駅から新幹線に乗って帰った。

本日、12114歩也。

2010年8月28日 (土)

新府城をゆく

新府城は広大な城である。

甲府駅で乗り換え、新府駅に降りる。

新府駅は無人駅で高架上にある。降りた下りホームから上りホームを見るが、どのように上りホームに行けば良いのか分からない。帰りはどうすれば良いのか。下まで下りて行き、高架をくぐって上りホームに行くということが分かるまでにかなり時間がかかった。

新府駅から西へ向かう。

ほぼまっすぐに歩き続けると左手に白い鳥居があり、これをくぐる。下は堀のような地形で少し水が流れていた。石段を上ると七里岩ラインで、車が頻繁に通っている。これを渡ると右に「史跡 新府城跡」の碑があり、左には「国指定史跡 新府城跡」の案内板がある・・・

新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正九年(一五八一)春、武田勝頼が甲斐府中として、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後八ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名づけ、同年十二月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年三月、勝頼は織田軍の侵攻を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。・・・

見上げると石段は続いていて、歩いて上がる。新府藤武神社の赤い鳥居をくぐり、さらに上がる。かなり上がったところで拝殿に手を合わせた。

ここは新府城本丸である。まず北側に歩いて行き、石祠・武田勝頼公霊社に手を合わせる。

それからその後ろに広がる景色を眺めた。そして本丸西側を歩き、少し下りて行こうと思ったのだが夏草が覆っていて足場も悪そうなので止めた。

「国指定史跡 新府城本丸跡」の標柱を見る。側面に「普請奉行 真田安房守昌幸 原隼人佑貞胤」とあった。

本丸南側は夏草に覆われており、掻き分けて「蔀の構」を見た。上がって見下ろした後、本丸を後にした。

二の丸に入る。やはり夏草に覆われていて、奥に進んで行こうという気になれない。

二の丸を後にし、坂を下りて行った。「西三の丸↑」という表示があり、夏草に覆われている。その先には「東三の丸↑」という表示があり、ここも夏草に覆われていた。

さらに坂を下りて行くと「南大手門↑」という表示があるが、その方向へ下りられそうもない。

仕方なく坂道を下りて行くと七里岩ラインに出た。少し歩いて、石段の下まで戻る。

そこから堀を渡り、北へ向かった。首洗池は水を湛えているが、こちらは喉がカラカラで、駐車場の自販機で水分を補給した。

その後、東出構を見て、さらに西に向かい西出構も見た。そしてその間の堀を見ながら戻り、新府城を後にした。

新府駅から電車に乗って帰る。途中、甲府駅で信玄桃を買った。

本日、10644歩也。

2010年8月 7日 (土)

名胡桃城をゆく

名胡桃城は小ぶりな城である。

上越線の後閑駅で降りる。

後閑駅前の奥利根ゆけむり街道を左に向かう。車がかなり通るが歩道は狭い。

まっすぐに歩いて行くと、関越自動車道月夜野ICからの車が高架を通る。こちらは彼らに合流して利根川を渡りたい。高架の下をくぐり、右側に進んで上り口を探すが見当たらない。

かなり迷ってやっと見つけた。上って月夜野大橋を見渡す。「月夜野大橋」という名とともに「田中賞1983土木学会」とある。橋の前方には山々が連なっており、後方は国道17号線から関越自動車道への上り口である。橋の左には沼田の町が低く見え、右側を見下ろすと利根川の流れが見えた。

月夜野大橋を歩いて利根川を渡る。前方左に赤い看板が見え、六連銭と「名胡桃城址 次の信号、右入る」とある。名胡桃城も近い、と思ったのだが「次の信号」が歩くと実は遠い。

右手の湯舟沢を見下ろし、前方を望むと遠くに柵が見える。近くに来てはいるようだ。

湯舟橋の先に名胡桃城はある。赤地と黒地の名胡桃城址の幟が迎えていた。「ホタルの里 つきよの」の看板もある。

案内板を読むと概ね次のようである。

利根・沼田地方は鎌倉時代より戦国時代にかけて沼田氏が支配していた。戦国時代の天文の頃、小田原の北条氏の支配となるが、永禄3年(1560)越後から上杉謙信が進出して支配する。しかし謙信が急死すると再び北条氏の支配となった。天正7年から8年にかけて真田昌幸が信州から利根に入り名胡桃城などを攻略して沼田城を調略した。この頃全国統一に向かって歩を固めていた秀吉は北条氏に対して上洛を促していたが、北条氏は上洛の条件として利根・吾妻の二郡を要求。真田昌幸は、沼田城は渡しても名胡桃城は渡すことはできないと答えた。天正17年(1589)7月利根川の東と赤谷川の左岸を限って北条領、西は真田領との秀吉の裁量が決まる。しかし北条氏の沼田城代となった猪俣邦憲は名胡桃城を不法にも占拠してしまう。この事件を知った秀吉は激怒、小田原攻めを開始し、北条氏は数ヶ月の籠城後、秀吉の前に降伏した。5代・100年にわたって関東に覇を唱えた北条氏であったが、この名胡桃城事件が直接の原因となって北条氏は滅亡し、100年余続いた戦国時代は終わりを告げた。

三の丸堀を見て、丸馬出しから三の丸虎口を通り三の丸へ入る。振り向いて遠くの山を見渡す。

二の丸堀を見て、喰違い虎口から二の丸へ入る。また振り返って見渡す。

本丸堀を見下ろし、本丸虎口から本丸に上る。本丸には徳富蘇峰の書になる「名胡桃城址之碑」が建立されていた。右角が欠けた形である。

本丸から湯舟沢、さらに左奥の遠くの町を見下ろす。右側には湯舟橋が見える。先ほどこちらを眺めた場所であろう。本丸の斜面では崩壊を防止する事業が行われているようである。

本丸からその先のささ曲輪へ進み、本丸を振り返る。さらに進んで、小さな袖曲輪を見て、沼田方面、後閑駅方面を見渡した。

本丸に戻り、もう一度「名胡桃城址之碑」を見上げ、本丸北側の斜面を見下ろす。

二の丸、三の丸から丸馬出しに戻り、国道17号線を少し行って般若曲輪に入る。曲輪の斜面を見下して名胡桃城を後にする。

湯舟橋を渡り、国道17号線から今度は左に入り、湯舟沢へ下りて行った。

途中、若宮八幡宮に寄り、県指定重要文化財という「小川島の歌舞伎舞台」を外から眺めた。

後閑駅に急ぐ。赤谷川を渡り、月夜野中学校の東側にある橋を渡って駅に戻るつもりで行ってみると、橋を渡ってはいけないとのこと。ここまでの地図しか持って来ていない。

とにかく北へ進み、車の通る道に出て東に進む。街路灯の柱には「月夜野」「水と緑とロマンの里」とあった。やっとのことで利根川を渡り、南下して後閑駅に着いた。

電車に乗って帰る。

本日、15357歩也。

2010年7月25日 (日)

沢村城をゆく

沢村城が入城を拒む。

東北本線の矢板駅で降りる。矢板から那須野に入る。

矢板駅前を右に進んで扇町交差点を右折、日光北街道に入る。線路を越えたところにある長峰公園に立ち寄ると、提灯が並んでいた。

中交差点を左折して国道4号線に入り、その先の中北交差点を右に進むと「澤観音寺直進2km」と看板にある。このあたりはまだ那須野の手前で小高い丘などがある。

道なりに進むと県道52号線は切通しに入り、人は車に遠慮して歩いて行く。

切通しを下りて抜けると田んぼが広がり、遠くに東北新幹線の高架が見える。江川という小さな川を渡った。

「圃場整備完成記念」碑の説明を読み、沢交差点を渡って新幹線の高架をくぐると交通量はめっきりと少なくなった。ほとんどの車は沢交差点を左に進んで行ったようだ。

まっすぐに歩いて行くと道の右側に沢の馬市碑があり、説明を読む。

左に曲がり、その先を右に曲がったところで、蓮池の先に金色に輝く観音像が現れた。

沢観音寺の駐車場には、澤村城主後八万石那須城主菩提所とあり重文澤観音の大きな石碑があった。「八代を承け一族にしたわるる澤村五郎まもる思慕山」と書かれた碑もある。

観音像に近づいて行くと「大慈母澤観音」とあり、さらに近づいて見上げる。右側には「澤村城址鷲山庭」の碑があった。

左に行って階段を上がり、本堂を訪ねる。曽良の句碑があるはずなので探したが、見つからない。本堂右奥の枯山水のさらに奥かと思ったが、前日までの雨を含んだ枯山水の地面に足跡を付けるのも憚られたため奥に行くのを止めた。

そして、いよいよ沢村城を登る。階段を下りて左に行き、墓地の裏から空堀を進むことにした。しかし、こちらも雨を含んで歩きにくい。が何とか進むが、少し進んだところで夏草が堀全体を覆って通れなくなった。奥まで覆っている。

仕方がないので引き返し、別ルートから登ることにした。駐車場まで戻り、県道52号線を少し進んで左に入り温泉神社に到達。ここから登ろうと思ったのだが、ここも夏草が繁茂していて登り口がわからず結局登るのは止めた。

沢観音寺の駐車場まで戻り、今度は右側に進んで箒川を目指す。河原に出ると沢村城は切り立っていて、こちらからは攻められなかったと思われる。

車道に上がり、箒川に架かる橋を渡る。橋は「かさね橋」といい、欄干には蕪村の画のレリーフが嵌め込まれていた。

橋からは展望が開け、田んぼが広がっていた。

田んぼの中の道をゆく。右側の田んぼの中に碑らしいものがある。このあたり、かつて薄葉が原の戦いがあったはずである。関連する碑かと思って近づいてみると、この地区の「圃場整備完成記念」碑であった。衆議院議員渡辺美智雄書の豊穣の文字が刻まれていた。

中薄葉交差点を過ぎ、まっすぐに進む。途中、道の左側に開墾記念碑を見つけ、さらに歩く。

道の左側に「那須塩原市」の標識があり、右側に石碑がある。渡って見ると、曽良の句碑であった。

かさねとは 八重撫子の 名なるへし

実取入口交差点を左折してライスラインに入る。ひたすら歩き、国道461号線を左に行く。途中、右に折れて、東北新幹線の高架下で少し休む。よく考えると、炎天下、これが唯一の休憩であった。

野崎駅に東側から入ろうとしたが道がわからず、途中声をかけてくださる人がいて、線路を渡ってやっと到着した。

野崎駅から電車に乗って帰る。

本日、21867歩也。「しっかり」も11284歩であった。

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